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「カゲ路」の情報まとめブログ

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「その透明な嵐に混じらず、見つけ出すんだ。」

このタイトルにもしているキャッチコピーが美しくて大好きです。


ユリ熊嵐 最終回感想
当然のごとくネタバレしているので注意です。


とても誠実な物語だったな、というのが最終的な感想でした。
1クールなので、物語のムダのない筋もそうですが、結末の描写としては現実的でかつ優しい終わり方をしたなと。

透明な嵐も断絶の壁もあの世界では無くなっていません。
紅羽がクマリア様を呼んだ時、壁は変化し友達の扉になりましたが開く事はありませんでした。
透明な嵐最強の代表、大木蝶子。
目の前でクマに変化したユリ(あえてここではヒトと書きませんが後述)、紅羽を見て叫びます。
同じユリであったはずの紅羽がクマになってしまう。もしかしたら自分にも周りにも起きるかもしれない出来事を見てしまう。
激しく動揺しながらも、排除をしないと透明を維持出来ない。
そして思考を停止して撃ってしまいます。

「迷うな、考えるな、撃てーッ!」

ヒトはここで断絶の壁を革命する機会を失いました。


はっきりいって現実で断絶の壁(様々な倫理の壁。これはヒトによって違うし、断絶は深まるばかりなので永遠に工事中なのだろう。)を無くすのは難しいなと感じます。
透明な嵐も同様です。無くそうと思って無くせるものではない。
だからそこを敢えて壁を取っ払うというカタルシスに行くことはせず、こういった描写にするのは誠実だなと。
ファンタジーなのだから、フィクションなのだからその中では救われてもいいじゃないか!という意見もあるかもしれない、だけれどそんなことをしても現実にある壁はなくならないわけで。
しかしユリ熊嵐にはちゃんと希望が残っていました。

亜依撃子とメカこのみです。
この二人は殺熊光線銃を操っていたために透明な嵐の集団と少し離れた位置にいて、撃子は紅羽と銀子が新たな世界に旅立つ瞬間を見てしまいます。
その少し前から、この二人には変化が始まっていたように思いますがとにかくこの二人は変革の芽なんですよね。
熊のこのみに芽がついてるのはきっと偶然ではないでしょう。
亜依撃子(あいうちこ)という名前も、最初見た時は「相打ち子」という意味だと思ったのですが「愛撃ち子」だったんだなと。
まさにLOVE BULLET
この二人の出会いはまさに銀子と紅羽の再現であり、そして新しく紡がれていく話。
銀子、るる、紅羽たちは選択を迫られたら答えることが出来る子たちです。
これって実はそんなに簡単なことじゃないと思っていて、その選択を放棄したのが透明な嵐の子たちで。
透明を選び続ける彼女たちはそもそも「誰かに見つけてもらう」という事自体の価値がわからない。
「誰かに見つけてもらう」ことがとても嬉しいことだということは輪るピングドラムの高倉陽毬も語っています。
(そういえば陽毬の声も銀子役の荒川美穂さんですね。)

そんな透明だったはずの撃子とこのみが出会い、愛おしげに抱きしめる姿。
銀子と紅羽はこんな世界から旅立ってしまいましたが、それを見た者に確実に愛を伝えた。
愛の連鎖です。
世界は依然として壁があり嵐が吹いて変わらないけれど、透明だったはずの意識に変革の芽生え。

「見つけたよ」


これがユリ熊嵐における希望。
こういった二人が増えていけばいいなというメッセージを感じました。
透明な嵐は、いじめ撲滅とかでいじめが撲滅しないようになくならないです。
もし無くすとしたら自然消滅しか道はないのかもしれない。
撃子とこのみも銀子と紅羽並に危険な目にあうだろうことは予想はできます。
だけれどまた繰り返すとしてもまた誰かの中に愛の弾丸を撃ちこむことが出来るかも、いや出来ます。

もう少し個人的な希望について書いてしまうと、このアニメを見た時に、
こんなに世界は生きづらいし、問題は横たわり続けているけど例えば「スキを諦めない」でいることでヒトとして生きていくことが出来るんだよという一例を見せてもらったというか。
ヒトとして生きることを肯定してもらうのにこれさえしておけばヒト足り得るという。
だからフィクションだからといってカタルシスによった展開ではなく、誠実に優しく描いた作品だなと思いました。


先に希望について書いておいてあれなのですが、紅羽と銀子について。
熊になってしまった紅羽に関して微妙に難色を示す意見もちらほらみるので個人的見解を書きたいと思います。

まず後述するといっていたユリについて。
このアニメでは人物が出てくる時毎度名前紹介下にヒトの形をしたものはユリと書かれています。
つまりこの世界ではヒトというかユリなんですよね。
だから「ユリ、承認」なのだろうし。ユリの姿になったクマたちの名前に「百合(ユリ)」とついている。
ではクマはなんなのかというと、ユリ以外の何か、自分と違うと認識した異物に対する名称全般がクマというか。
ユリとクマについてはかなり抽象化した二集団としての意味ぐらいで考えたほうがいいかなと。
見た目はともかくとして己の考えを喋ってコミュニケーションが取れるならヒトと考えます。
つまりユリもクマもヒトですね。
ユリ(ヒト)とクマ(ヒト)の物語。

ここまで書いてユリとクマは結局どちらも本質的にはヒトなのだとしたら紅羽がクマになったというのも種族を変化させた~とか人間を捨てた~とかで見るのではなく
「相手のために自分の意見を相手に寄せる」のような解釈でもいいんじゃないかなと思います。
アニメなので派手に絵の変化が起きるけど実際にはそのぐらいの話なんではないかと。
自分を通すだけじゃなくて相手の為に自分を変化させる、これが大事なのだと。
ダメ押しでるるのエピローグではずっとキスをねだっていたみるんが「約束のキス、ボクからすればよかったんだ」と言ってます。
相手のために自分を変えること。
イクニ作品ではこれを自己犠牲的な姿でもっても描かれます。
100万本の剣を代わりに受けたり、蠍の炎に焼かれたり。
でもそんな死を覚悟するような自己犠牲ではなくとも、自分が相手のために変わろうとすることだけでそれと同じような事が出来るんだよ、出来るかもしれないんだよ。
ユリ熊嵐を見てそんな風なことを思いました。


最終回に関してはこれでおしまいにしたいと思います。
各キャラクターに関しても書きたい所なんですがまた別の機会に書けたらと思います。





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